(聞き手)
避難所担当だった頃のお話をお聞かせください。
(鎌田様)
大規模災害時指定収容
避難所となる多賀城東小学校の班長をやっていました。市役所から
避難所へ向かう途中の産業道路の念仏橋は既に警察に通行止めにされていました。理由を話して、どうにか通らせて頂きました。私自身が津波という想定をしていなかったので、多賀城東小学校に着いてから、貞山堀沿いにある大代地区公民館へ資材を取ってきてほしいと班員に指示を出しました。大代地区公民館は少し低い立地なので、そこに向かった時に津波が来てしまい、職員をだいぶ危ない目に遭わせてしまいました。幸い、怪我などはなかったので一安心でしたが、津波のイメージがあれば、そういう指示を出さずに済み、別の行動を取れたのかもしれません。
(聞き手)
大代地区公民館の資材・機材はどういうものがあったのでしょうか。
(鎌田様)
まず、本部との連絡用のトランシーバーとヘルメットです。あとは、通常防災で使うような救急用品や担架などを置いてありました。ちょっと特殊な事情があって、大規模災害時指定収容
避難所と離れているので、取りに戻るように指示したのです。
(聞き手)
その特殊な事情というのは、どういう事情なのでしょうか。
(鎌田様)
実は、大代地区公民館は市役所の施設で、使い勝手が良いのです。通常の大雨などでは支障がないので、通常であればそこを拠点として活動していました。東日本大震災の前には、大規模災害時指定収容
避難所まで避難することは全くありませんでした。
また、大規模災害時指定収容
避難所を開けることそのものが初めての
経験でした。訓練では
経験しましたが、訓練と実際の状況は違います。私たち担当職員が行った時には、学校で既に体育館を開けていました。
マニュアル上では、震災で
避難所を開ける時にはまず職員が鍵を開け、安全確認をすることになっていました。
マニュアルも読んではいましたが、それに従っているどころではありませんでした。
(聞き手)
それは、小学校の先生が
判断して開けていたということでしょうか。
(鎌田様)
そうだと思います。私たちが到着した時には、もう中に避難者の方がいました。
(聞き手)
体育館はどのような被害があったのでしょうか。
(鎌田様)
ボードが落下したり、天井の電灯が外れたりしました。電灯は辛うじて落下まではいきませんでした。
(聞き手)
その混乱の中でどのような対応をされたのでしょうか。
(鎌田様)
余震がひどく、
ライフラインは全て止まってしまっていましたので、どうやったら住民の方々に安全に避難して頂いて、一晩を過ごすかしか考えられませんでした。それから皆さん着の身着のままで来られていたので、食べ物の心配がありました。確かその日の夜1時~2時頃に、本部から食パンが届きました。当時600近い人がいましたので、数量が足りないから半分の量で分けてくださいと指示しました。ある程度渡すとそれでも足りなくなったので、さらにその半分で分けてくださいと指示しました。その夜は、一人当たり4分の1枚の食パンで過ごしていただきました。
(聞き手)
大代地区公民館に備蓄があったのでしょうか。
(鎌田様)
そうです、乾パンなどがありました。これも余談になってしまいますが、隣の七ヶ浜町などでは、発災当日の晩からおにぎりの炊き出しをしていたそうです。多賀城でも新田などでは炊き出しをしていたらしいのですが、地区のほとんどが被災した大代地区では無理でした。
(聞き手)
避難所にたくさんの方がいる中で、場所の整理などはどのようにしたのでしょうか。
(鎌田様)
無我夢中だったので、記憶はかなり薄いです。職員も地区役員も、できることをやっていたというくらいで、あまり覚えていません。
(聞き手)
避難所である学校の使い方はどのようなものだったのでしょうか。
(鎌田様)
私の担当は大代地区だったので、多賀城東小学校を指定
避難所として使用することになっていたのですが、隣の笠神地区では、東豊中学校を
避難所とすることにしていました。その中学校には武道館があり、畳の部屋が確保できます。そこに笠神の方だけでなく、大代の方でも足腰が悪い方や、赤ちゃんがいる方などは共同で入れて頂きました。当初は学校の音楽室など、絨毯敷きのところにお年寄りや子供を入れていました。
(聞き手)
市役所との連絡はほとんどできなかったと思いますが、今回はどのような連絡手段を取られたのでしょうか。
(鎌田様)
最初は一台だけ持ち出したトランシーバーを使いました。ですが、トランシーバーは、停電のため充電できず、二日ほど使って、そこで電池が切れました。あとは数日後に電気が通るようになってから、個人の携帯電話で連絡しました。
(聞き手)
発電機などはなかったのでしょうか。
(鎌田様)
実は、地区住民の方が発電機を一台だけ持ってきてくださいましたので、体育館の表に付けました。あとは学校から集められるだけ懐中電灯をかき集めて、夜のトイレに行く人や階段を照らしました。東小学校は一階部分がピロティで、二階が体育館になっています。ですから、夜にトイレに行くために階段を通らなければいけませんでした。下を風も通るので、寒かったです。毛布も、あまり役に立ちませんでした。
当時は震災当日から、物資が全く届かない状態でした。自宅は無事ですが不安なので逃げて来た方などは、自分たちの分だけでなく、毛布を複数枚余計に持ってきてくださったので、お年寄りの方や赤ちゃんがいるご家族などには、その毛布を使ってもらいました。
それから私が良かったと思っているのは、三月から四月にかけてのことだったので、食べ物の消費期限などをさほど心配せずに済んだことです。もしこれが梅雨から夏にかけて起きていたら、食べ物の心配も途方もないことになっただろうと思います。